2015年06月05日

25回忌 法事

母が亡くなって24年、父が亡くなって26年。

父は四男だったので母が父の兄に倣って新しく仏壇を備えた。
そして母亡き後、長男(弟)が仏壇と位牌を受取っていたが、弟が他界し1人暮らしになった若いお嫁さんに押付けるのが気の毒だということになり、次男が位牌を受取った。

次男宅には既にお嫁さんのご先祖の仏壇がある。
そこに一緒に祀られることになった。
次男の嫁さんは一人っ子、結婚して姓は変わっても実家の先祖を祀る役目を負うのは仕方ないことなのだ。
今はこんな例が少なくないのではないだろうか、今後も増えるだろうと思う。
私も娘を一人しか産んでいない。
結婚して戸籍上の姓は変わっても娘には私達の死んだ先も世話になることになる。
私の両親にとって孫はこの娘1人、弟達は子供に恵まれなかった。最後には私の両親の骨も娘に託されることになる。下手をすれば弟達の骨も娘の所に来るかもしれない。
どこかでピリオドを打たなければ・・・。打っていいよ。と思う。


長男は無宗教を主張していた。
亡くなった時はお経ではなくギターとフォークソングの大合唱だった。
当然のように弟は両親の法要法事を行わなかった。
私も仏教の法要のありように疑問を持つため同意していた。


次男は別に主義主張を言い張るタイプではない。
世間の常識に倣っていけばいいじゃないかと思ったのだろうか、突然25年の法事をするよと言ってきた。
私は自分の葬儀で生臭坊主にお経を挙げてもらいたくないと思ってはいるが、人が法要法事をする気持ちを否定する気持ちはない。
お付き合いの深さや会話の気持ちの良さから出席させていただきたいと思ったときは宗教に関係なく行かせて頂いている。

弟が今年なぜ法事をする気になったのか聞きたかったのだが、聞くチャンスがなかった。
まぁ聞いても仕方ないかというのもあったが・・・。



余談になるが、法事には会いたくもない人が来る。

両親が亡くなった時、遠慮も気遣いもなく全てに感情的に口を出して、すったもんださせた思慮の浅い叔母がいた。
まだ30代だった私達兄弟は翻弄され不仲になり25年の歳月が流れた。

私はこの叔母を一生許さないと決めている。
亡くなった弟も決してこの叔母を許さなかった。
こんな決心をすると自分の気持ちに苦痛を感じるだろうにと思う人もいるかもしれないが、憎悪(感情)ではない静かな負の決心というのは意外にも心地よいことを知った。


母の妹であるこの叔母も今回の法事に来ていた。
相変わらず言いたいことを何でも口にする態度は変わっていない。
足が悪いらしく座敷で椅子に座り、高いところから大声で座敷の欄間が悪いの家具の配置が悪いの、調度品を品定めして褒める所は多少褒めつつ、貶(けな)すべき所を探して大声でけなしていた。
そんな姿を見て、歳を取ったら控え目で上品で居ることの大切さや、年寄りの役割や在るべき姿を思った。

まぁ、考えようによっては悪い見本も色々考えさせられる点はありがたいと言えばありがたいのかもしれない。


故人を思い偲ぶ法事や法要はそこに集う者たちの心の内にその気持ちがあればいい。
決まりごとではないはずだと思う。
生きている者が故人を偲ぶ、それをどんな形にするかは自由だと思う。



今回の法事、その叔母が言いたい放題で、母を偲ぶという雰囲気ではなかった。残念。
posted by win-manma at 19:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 暮らし