2016年03月30日

母方の祖母と母の伯父さん

祖父の次は祖母の事を書かねば申し訳ないと思ったが、
たった3年の時しか与えられなかった祖母と孫ではお話することもないのが実情。

祖母が亡くなったあと、私は母の末の妹とよく遊んだ。
当時その妹はまだ小学生。私とは5歳しか離れていなかった。

淋しかろうと母が行かせていたのだった。

強烈に覚えている遊びがある。
お医者さんごっこ。
祖母の臨終のシーンの再現ドラマだった。
人形を祖母に見立て私と姉さん(叔母)で縋って泣くのである。
「お医者さんも、看護婦さんも泣くんよ(x_x;)」と教えられ、演じていた。

この遊びを母に話した時、母が堪らずに泣き出した事を覚えている。


祖母の弟に「亀太郎おやじ」と呼ばれている母の叔父がいた。
本当の名は「亀芳」だと知ったのは随分経ってからである。
酒癖が悪くとても品行行方正とは言いがたい男で、私は大嫌いだった。
私は品の良いジェントルマンが好きなのだ。(笑)

父と二人して往来で酔っ払って大声でわめいている時など、子供心にも消えてしまいたい心境で、来ると睨みつけていた。

この叔父さん、バツ2で三人目の奥さんとは長く連れ添った。
子供は四人いた。
長男は最初の奥さんの子でイケメンだった。よく探偵ごっこをして遊んでもらっていた。
どういうわけかは知らないが、私が物心付いた頃にはすでに奥さんはいなくて男で一つで二人を育てていた。
長女は幼児の頃赤痢で亡くなった。

二人目の奥さんは色の黒い目のきれいな人だった。
女の子を二人産んだが育児が苦手なタイプで、小説を読みながら離乳食を大人のスプーンで与えているのが印象的だった。
この人が来て先妻の子である長男と折り合いがつかず、長男は親戚に預けられたと聞いた。
この奥さんもいつの間にかいなくなっていた。亡くなったと聞いている。


この叔父さん、腕の良いペンキ職人だった。
人情派で、薄情な私の祖父を嫌っていた。その心情が父と共鳴したのかうちとは長い付き合いになった。
仕事で大阪に行っていたとひょっこり顔を見せた時、
なんだか垢抜けていた。
「吉本新喜劇行った?」と聞くと、「何回も行った!」と笑っていた。
大声で大男で情に脆(もろ)くて、子煩悩で、義理堅くて、主義主張を曲げない強烈な人だった。

が、一本筋が通っていた。

大人になってこの叔父さんの大きな人間性に気付いた。

人は見かけによらないんだ。
学が無くても優しい心根と男気で生きる人の魅力というものがあることを、この叔父さんを見ていて知った。


この叔父さんに注意されたことが一度だけある。
嫌いな叔父さんだったので、昼間一人で寝転んでいた時、ぞんざいに「お父さんいないよ!」とつっけんどんに言ったら、
「寝転んだままそんな風に言うmanmaは俺は好かんなぁ」と優しく言った。
その優しい叱り方に心動かされた。
本当にいけない態度だったと素直に反省したのだった。



昔は隣近所親戚親類の垣根が低くて好き嫌いに関わらず交流が多かった。
そこで色々な人を見て子供は育っていった。
人を見る目も育っていった。


今は、垣根が高い。嫌いな人とは距離を置いても許される世になった。
見て見ぬ振りがマナーやプライバシーと呼ばれる世になった。


面白いものを見ないで損をしているかもしれないよ。
イヤな思いをしないで済むけれど、イヤな思いから得られる徳もあるよなぁ、とこの年になると思う。
イヤな思いに悩んだ頃がよかったとは決して思わないけれど。



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2016年03月24日

母方の祖父 信春

母はこの信春の長女として昭和6年に生まれた。

この時、信春は20代前半。


母からの口伝えなので定かなではないが、東京の理科大学を卒業して佐世保に戻り、祖母マサエと仲良くなり結婚したと聞いている。

信春の母親はおらず、父と息子の二人暮らしだったようだ。

祖母がこの舅に仕えていた様子を聞いたことがある。
口煩い舅でガミガミおやじだったと母が言っていた。


舅は喘息が悪化して亡くなったと聞いている。

終戦の時、海軍工廠に勤めていた祖父は米兵の通訳などしていたらしい。
留学の経験があるわけではないのだからたいした役には立たなかっただろうが片田舎の大学出は何でもさせられたのだろう。(笑)


その後、新天地を求めて信春一家は佐世保を出て北九州に定着した。

信春は八幡市役所に入り、22歳になった長女(私の母)は近所に居たお兄さんに惚れ、結婚。
翌年、私が生まれた。

信春マサエ夫婦には長女次女長男三女四女五女の6人の子供があった。
長女の私の母は佐世保で女学校に行ったが、次女から下は中学校を出て働いている。

祖母マサエは42歳の若さで亡くなっている。

私は祖母のいる母の実家で生まれた。
祖母が私を抱いている写真が何枚かある。
慈愛に満ちた優しい顔をしている。


マサエはいつも信春にガミガミ言われていた。
信春は帰宅すると苦虫を噛み締めたような顔をしてた。
祖父母の家に行くと孫の私までも緊張を強いられた。
誰もが腫れ物に触るようにおどおどしていた。

その挙句、祖母は癌になり早世してしまった。

なんと、信春には愛人が居たのだ。
マサエが亡くなった途端にその愛人が子供を二人連れて乗り込んできた。
マサエの子供達は義務教育が終わると同時に次々に家を逃げ出した。

子供達が頼るのは既に結婚していた長女の家だった。
我が家にはいつも母の弟や妹達が代わる代わる来ていた。
父は母の妹達を本当の妹のように思っているようだった。
お互いに遠慮無いのが親戚なのだと私は思って育った。あせあせ(飛び散る汗)


信春は愛人を後妻に迎え、後妻さんに上手に尽くされて平穏に暮らしていた。
この後妻さん、なかなかのやり手で、小料理屋(元々の職業)を営んだり、美容室を営んだりしていた。

我儘な信春のことである。
給料を全額渡してはいなかったのかもしれない。
やり手の後妻さんだからこそ信春をうまくあやして手懐けられたのだろう。

最後はやはり癌になり、後妻さんに付きっ切りの看病をしてもらって静かに息を引き取った。


当然、マサエの子供達はこの祖父信春を恨んだし誰も心配などしなかった。
愛されなかった子供達は当然のように父親である信春に優しい気持ちなど持たなかった。

亡くなってもヤレヤレという顔をしていた。

誰一人として後妻さんに労いの言葉もありがとうございましたの一言もない。
なんとも可笑しな葬儀だった。
誰も泣いてやらないなんて・・・ね。
だれからも泣いてもらえないなんて・・・ね。
まぁ信春はそんなことに価値を見出していない人なのだから気にも留めてないか。(笑)



私などはついつい「情けはひとの為ならず」なのだなぁと思う。
いくら私が我儘でも自分さえよければそれで良しとは割り切れない。

身近な人には優しさを求めてしまう。
だから、自分も身近な人には優しくありたいものだ。


それを忘れるなぁ。


反省、反省。(;´▽`A``


posted by win-manma at 23:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 暮らし

2016年03月22日

なみだ目.2

2014年07月14日に 「なみだ目」について書いていた。

すっかり忘れてしまっていた。

最近なみだ目が進行してタラりと流れることもある。


二年前はシッカリ閉じると軽減するらしいと書いている。

二年前からなのか(・・。)ん?と我が事ながら健忘ぶりに呆れながら認識を新たにした。


今年調べたところによると
目の表面の張力が衰え、顔の皮膚同様弛みが生じて涙腺の機能を阻害していると書いてあった。


そういえば、義母様は白内障の手術をしてから老眼鏡ナシで新聞が読めるようになったと言っていた。
水晶体をきれいにして眼内レンズを入れてもらう手術をしたら老眼の症状まで改善されるなんて知らなかった。


先日遠近両用レンズの付け心地が悪くて眼科に行った際、左目に白内障出てますよ。と指摘された。

遠近コンタクトレンズ(3)


早めに白内障ケアしてもらった方がイイのかもしれないなぁ。(・・。)?



posted by win-manma at 11:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 老い

2016年03月21日

初孫

娘が子供を産んだ。(・・。)ホウ?


孫は可愛いとよく聞く。


「可愛いのよ〜、なんでも買ってあげたくなるの」
だ、そうだ。(義兄嫁の弁)


義兄達がUターン帰省して同居を始めて直ぐの頃、
義母様はこの兄嫁の産んだ6歳になる初孫のことを「甘やかして育てているからダメだ!!」と、私に仰った。

この子はダメだと思ったから、「もう一人産みなさい。」と言ってやったと言っていた。

そして待望の二人目をことのほか可愛がり、可愛がる事を楽しんでいた。


気に食わない孫は可愛くもなんともないということか、と思った。





兄嫁が可愛くて仕方がないと言う孫は、この祖母に気に入られなかった初孫のところの子供達である。
義兄夫婦はこの長男家族と親密に接し、気心を通じ合い。良い関係を築いているようだ。
長男(義母様の初孫)の嫁と義兄嫁が上手くやっているからこそ、可愛いと手放しで喜べるのだろうと思う。
気性の強い義母様と同居して苦(にが)い思いをいっぱいしてきた義兄嫁だからこそなせる事かもしれない。と思う。




子供は愛に包まれて育つものだ。
しかし、子供を包む愛情の和に軋轢があったとしたらどうだろう。
この子は素直に伸び伸びと育つだろうか。

昔、子供が重度の拒食症になり病院を退院する目処の立たない親類の相談に乗ったことがある。

よーく話を聞くと、根に嫁姑の確執があった。

同居を強いられ、強い姑に従うしかない鬱憤を子供に愚痴り、愚痴の毒を浴びせられた子供は祖母と母との板挟みに苦しみ。心を壊してしまったようだった。


子供にとって大切な大切な母と祖母。
自分を心から愛してくれている二人なのに、苦しみから抜け出すことのできない辛い環境でしかない家族。
なんと可愛そうな子供だろうと、その時思った。




嫁姑の確執が及ぼすことの重大さに気付く人は少ない。
しかし
子の親になったら、ひとまわり大きな視野に立って周りを見る目が必要になることを悟ってほしいものである。



私は娘に対してとても厳しい母親だった。
そのフォローを私の両親の無条件に孫を愛する気持ちに託した。
時に甘やかし、時に諭し、いつでも大らかな暖かい笑顔で迎えてくれる祖父母の存在は大きかった。
私の両親は私の期待に応えてくれた。
それは、私が両親の芯にある深く大きい人間性を固く信頼していたからできたこと。

信頼無くして暖かな(祖父母も含めた大きい意味での)家族に成り得るわけが無いじゃないか。
ましてや、前述の拒食症の例のごとく憤懣が思わぬ悲劇に及ぶこともあるのである。
家族のどこかに歪が生じ、離婚や別居、心身の病気、子供の非行や強い反抗、等々。世間に溢れている。

親子だけなら、と思いたいだろうがそう簡単にはいかない。
親子は代々つながっているのだ。(笑) イラン( -.-)ノ ・゜゜・。
自分達だけなら・・・。それは狭い料簡。
義理の仲ほど難しいものはない。補い合い助け合う仲でありたいものだ。



孫は無条件に可愛いと思うのは当然の摂理なのではなかろうか。
なぜならば、人間は多くの人に愛されてスクスク育つものだから。
ジジババは無条件に孫を愛していいのだと思う。

しかし、愛し方は十人十色である。

なかには孫を盲目的に可愛がりたがり、スターに群がりキャーキャー騒ぐファンのようなバカっぽい祖父母もいるらしい。

が、

多くの祖父母は、人生経験から得た知識と理性で客観的に冷静に孫の成長を愛情をもって見守っているのではなかろうか。


少なくとも私は後者でありたいと思っている。


私は母方の祖父に可愛がってもらった記憶がない。
祖父は初孫の私が生まれた時、40代だった。
東京の大学を出た美男のインテリ男にとって孫よりも多くの女性にもてることの方が嬉しかったようだ。

イケメンでインテリ、チャラ男のこの祖父に人として魅力を感じることはなかった。

祖父母にも色々なタイプが有るものだと改めて思う。
posted by win-manma at 00:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 暮らし