東洋経済 ONLINE 掲載記事
「女性の事務系仕事」は令和時代に生き残れるか
「必要とされる仕事」について考える by[坂東 眞理子 : 昭和女子大学理事長]
要約すれば今後、簡単な事務職はAI(人工知能)に取って代わられますよ。
AIを使いこなせる人になって、更に人間力を磨いてこれを武器にでき得る人になれば社会に必要とされる人材になれますよ。と書いてあった。(私にはそう読み取れた)
AIの登場で将来が危ぶまれる人達というのは、
努力してAIを使いこなせる人になりうる若者ではなく、AIに挑むなんてとうてい無理なんだよという人をどうするかじゃないのか?
これではAIに取って代わられてしまう人のアドバイスにはなっていませんよね。
そのころになると格差社会がますます広がるのよと、脅かすばかりで具体的にどうしたらいいのかを示唆できていない。
失礼ながら将来像がこんなお偉い先生にも見えていないから示唆しようがないのだろうな。と私は思った。
問題は、お勉強は嫌いだけど性格は明るくて体力もあって人を愛する情熱もある若者が食っていけない社会が来るとしたらどうするということでしょう。そこのところの解決策を人々は待っているのだ。
多くの逞しい若者を食わせていけない社会というのは社会の体をなしていないといえるのではないか?
昔読んだ本に社会が若者を食わせていけなくなると、皆を兵士にして戦場に送り込もうとする作用が働くと書いてあった。
格差社会の底の方にいる人々に仕事を提供するのは社会(政治)の役目です。
彼らに何らかの役割を提供しなきゃならない。
それが何なのか。どういうものなのか。
社会はどう進もうとしているのか、どう膨らもうとしているのか、能力の低い人間を排除しようとするのか、切り捨てようとするのか。
個人レベルではなく社会システムとして考え、答えを導き出さなければならない段階に来ているように私には思える。
若者よ地に足を付けてしっかり踏ん張れよ !!!(ง •̀_•́)ง
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2019年04月23日
2019年04月06日
備忘録 養老孟子著「養老訓」
老後の生き方の指南書を2冊読んだ。
外山 滋比古 (著)「知的な老い方」を読んだが私の老後とはどうも違うなと感じた。
財テク上手で都会暮らしの教養人の知的老後の暮らしには要するにお金がなくちゃ楽しくないよ。と書いてあるのだなと私には思えた。
どうも私はお金に執着する人の話が好きではない。お金で買える幸せや楽しみなんて大したことないでしょうと思ってしまう。
お金では得られない感性や優しい心根に重きを置いてしまう。
たぶん無い者の妬みも含まれてるんだわね。(笑)
次に養老孟子著「養老訓」を読んだ。
以下は目次。
訓の壱 不機嫌なじいさんにならない
訓の弐 感覚的に生きる
訓の参 夫婦は向かい合わないほうがいい
訓の四 面白がって生きる
訓の五 一本足で立たない
訓の六 こんな年寄りにはならないように
訓の七 年金を考えない
訓の八 決まりごとに束縛されない
訓の九 人生は点線である
前回の「知的な老後〜」はとっても安易で読みやすく私の頭でも言っておられることは理解できた。
ところが
「養老訓」は全く私の頭に入ってこない。
養老さんの言っておられることが伝わってこない。
目次は平易な言葉で書かれているのに何を教えて下さろうとしているのか全くチンプンカンプンなのだ。
知的レベルが全く違うのだと気付いた。
あっ、これが「バカの壁」だ。
あー私は養老先生のおっしゃる概念的思考に毒されているのだな。だから自分を肯定しよう否定されまいとする意識が働いて理解不能状態になったのだ。
そう気づいたのは本の終わりにさしかかったころだった。
そこでもう一度最初から読み返してみた。
二度目は多少なりとも理解できるようになってきた。
そうそう先生が仰るように、「あーすればこうなる。こうすればあーなる」と頭で考えながら生きてきた。
詰め込み教育の全盛時代に育った。頭のいい人が優れていると刷り込まれて育った。
それは都市生活の上でしか成り立たないのだよ。
自然界に入ると予測不可能なことばかり、感覚が生きる上でとっても大切になる。
都市型社会に暮らすとその感覚的思考が弱くなり概念で生きるようになる。
と書かれている。
脳内のバランスが悪いとも書かれていた。
入力ばかりで出力していないと。
確かに入力方法は学校で習ったけれど、我々は出力方法は学習していない。
子育ての頃「ゆとり教育」が盛んに提唱されて授業時間を減らし、体験学習をさせなきゃダメだとなりゆとり世代なるものを生み出したが、競争を排除し個性豊かに育てようというのはスローガン的提唱に終始して真の人間形成には及ばないままに終わった印象がある。
頭で考える。人として生きていくにはそれがすべてだとつい思ってしまう。
違う違う、頭の力を抜かなきゃ鬱血してしまう。
そのためには五感を開いて感受しようと先生はおっしゃる。
人は脳内バランスを整えて心身ともに健やかに老いればこれほど幸せなことはないと。
まったくだ! この年になっても教えられることがいっぱいある。
気付かされることもいっぱいある。
人生は楽しいものだなと年金がもらえて飢えることなく自由に時間が使えるようになってつくづく思う。
もし年金収入がなくなって飢えるようになったらさっさと死ねばいいんだもの。
なんとなくそんな風に読み取れる部分もあって、そう!わたしはやはりこんな気概のある老人が好きだし自分もそうありたいと思っている。
いい本だった。
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外山 滋比古 (著)「知的な老い方」を読んだが私の老後とはどうも違うなと感じた。
財テク上手で都会暮らしの教養人の知的老後の暮らしには要するにお金がなくちゃ楽しくないよ。と書いてあるのだなと私には思えた。
どうも私はお金に執着する人の話が好きではない。お金で買える幸せや楽しみなんて大したことないでしょうと思ってしまう。
お金では得られない感性や優しい心根に重きを置いてしまう。
たぶん無い者の妬みも含まれてるんだわね。(笑)
次に養老孟子著「養老訓」を読んだ。
以下は目次。
訓の壱 不機嫌なじいさんにならない
訓の弐 感覚的に生きる
訓の参 夫婦は向かい合わないほうがいい
訓の四 面白がって生きる
訓の五 一本足で立たない
訓の六 こんな年寄りにはならないように
訓の七 年金を考えない
訓の八 決まりごとに束縛されない
訓の九 人生は点線である
前回の「知的な老後〜」はとっても安易で読みやすく私の頭でも言っておられることは理解できた。
ところが
「養老訓」は全く私の頭に入ってこない。
養老さんの言っておられることが伝わってこない。
目次は平易な言葉で書かれているのに何を教えて下さろうとしているのか全くチンプンカンプンなのだ。
知的レベルが全く違うのだと気付いた。
あっ、これが「バカの壁」だ。
あー私は養老先生のおっしゃる概念的思考に毒されているのだな。だから自分を肯定しよう否定されまいとする意識が働いて理解不能状態になったのだ。
そう気づいたのは本の終わりにさしかかったころだった。
そこでもう一度最初から読み返してみた。
二度目は多少なりとも理解できるようになってきた。
そうそう先生が仰るように、「あーすればこうなる。こうすればあーなる」と頭で考えながら生きてきた。
詰め込み教育の全盛時代に育った。頭のいい人が優れていると刷り込まれて育った。
それは都市生活の上でしか成り立たないのだよ。
自然界に入ると予測不可能なことばかり、感覚が生きる上でとっても大切になる。
都市型社会に暮らすとその感覚的思考が弱くなり概念で生きるようになる。
と書かれている。
脳内のバランスが悪いとも書かれていた。
入力ばかりで出力していないと。
確かに入力方法は学校で習ったけれど、我々は出力方法は学習していない。
子育ての頃「ゆとり教育」が盛んに提唱されて授業時間を減らし、体験学習をさせなきゃダメだとなりゆとり世代なるものを生み出したが、競争を排除し個性豊かに育てようというのはスローガン的提唱に終始して真の人間形成には及ばないままに終わった印象がある。
頭で考える。人として生きていくにはそれがすべてだとつい思ってしまう。
違う違う、頭の力を抜かなきゃ鬱血してしまう。
そのためには五感を開いて感受しようと先生はおっしゃる。
人は脳内バランスを整えて心身ともに健やかに老いればこれほど幸せなことはないと。
まったくだ! この年になっても教えられることがいっぱいある。
気付かされることもいっぱいある。
人生は楽しいものだなと年金がもらえて飢えることなく自由に時間が使えるようになってつくづく思う。
もし年金収入がなくなって飢えるようになったらさっさと死ねばいいんだもの。
なんとなくそんな風に読み取れる部分もあって、そう!わたしはやはりこんな気概のある老人が好きだし自分もそうありたいと思っている。
いい本だった。
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