昨日のあさイチのテーマは卒婚だった。
夫婦関係の新たな形
役割分担にとらわれない関係を提案しているのだそうだ。
気持ちが離れてるわけではなく、料理や洗濯などの家事を奥さんがしなきゃならないという決まりを見直す取り組みが紹介されていた。
子供が育ち独立すると家庭ががらりと様変わりをする。
そこから夫婦二人の生活が始まる。
今更新婚のような関係にはもちろん戻るはずはなく、子供のパパ・ママとして見ていた互いの認識を変化させざるをいなくなる。
夫婦を30数年もやっていると、男と女ではなく一緒に生きる生きてきた同志になっていることに気付かされる。
私は専業主婦が長かった。
当然、家事は自分の仕事だと思い。楽しく掃除洗濯料理、子育てにいそしんできた。
夫もそんなもんだと思っていたため台所に立つことも掃除洗濯をすることはなかった。
子供が巣立ち二人の生活が始まってしばらくしてふと思った、夫は家事ができなくて本当にいいのだろうかと。
私が寝込んでしまった時に台所に入って料理をする夫の手際の悪さ、調味料の場所も包丁の使い方もわからないまま悪戦苦闘している。
アーこれからは夫も台所仕事に慣れておかないと先で不自由することになるなと思った。
仕事をリタイアした夫に朝食を自分で作ることを勧めると案外すんなりとやってみるよと言う。
朝ごはんはパン、サラダ、具だくさんスープ、ヨーグルト、コーヒー。
冷凍保存した手作りパンを解凍して焼き、スープを温めてカップに注ぎ、レタスをちぎりトマトを切って皿に盛り、自家製ヨーグルトを出してボウルに入れてジャムを混ぜる。豆を挽いてドリップでコーヒーを入れる(本人の拘り)。
私は一切、口も出さなきゃ手も貸さない。といってもスープやパンやヨーグルトは常に用意万端整えている。
ただこれだけなのに・・・。(・。・;
だが一年もすると随分手際が良くなった。
冷蔵庫の開け閉めが軽やかになった。以前は必要以上に力任せに開閉して不慣れさが際立つなぁと思ったものだった。
包丁も随分慣れてきて近頃はキャベツの千切りもできるようなっている。
難しい面倒な料理をする気はないらしい。
料理に目覚めたわけではない、台所を把握できていていざとなったら困らない程度にはなっている。
掃除や洗濯は男でもやろうと思えばできるものだ。
これだけでも私にとっては大助かり。
気ままに自分だけの朝ごはんを作って食べる。
この時間が嬉しい。
この頃はこのささやかな自立から洗濯の連係プレイに発展した。
洗濯ものを洗濯機に入れ、洗剤を投入、スイッチオンは私。
洗濯が終了してピーピーと鳴ると、終わったよ〜と夫に言う。
すると夫は洗濯物を籠に入れてベランダへ持って行き干す。
干し方に文句を言いたくなるがグッと我慢する。言えば私の気は済むが夫はヤル気を失う。
文句があるなら君がしろよと多分言うだろうな思うから。
率先して自分の役目だと思ってくれるのだから有難いと思わなきゃねと自分に言い聞かせる。
必要なら世話をするがなるべく離れてお互いにしたいことをする。
パートナーであっても好みも趣味も違うのだからそれぞれの個性は尊重してフリータイムは好き勝手に過ごしたいじゃないか。
30数年一緒に暮らせば空気と化している。くっついていたってわずらわしいだけだ。
元々ベタベタイチャイチャなんてしないタイプの二人だから素っ気ないくらいの方が自然でしっくりくる。
この頃言われている卒婚はたぶん生活面で男も女も自立して、互いに負担をかけずに暮らすというとのようだが、私の年代の女性の多くは経済力がない、経済的に自立できないのに偉そうなことは言えないかもしれない。
だが、経済的に恵まれていない女性に対して自分の経済力で養ってやっているのだから俺の世話は当然じゃないかと考える傲慢な男というのは人として嫌いだ。
妻はペットではない、食わせるとは何ごとだ。
浪花節の「妻は夫をいたわりつ、夫は妻に慕いつつ〜」というのを小さい子供のころに聞いたことがる。
幼心にも夫婦というのはいたわりあうんだな妻を大切に思うんだなと感じて私は大人になった。
その延長線上に今の私たちの卒婚に似たライフスタイルが出来上がっているような気がする。
気持ちの底の方に「いたわる思い」があるというのが大前提なんだろうなと思う。
老いた夫婦の理想の形を卒婚などという冷たい響きで終わらせることなく、暖かく微笑ましいものに昇華させてほしいと切に思った。
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