2019年06月18日

練馬・川崎の事件に思う

川崎の20人殺傷事件、練馬区の元事務次官の殺人事件。

ニュースを見ていると気の毒で言葉を失う。
被害者に対しては勿論のこと、
加害者にもなぜそんな不幸に、そんな地獄に身を置くことになったのと思う。


こういう事件を起こす人の多くが自分の不幸は置かれた環境のせいだと言う。
社会が悪い、親が悪い、あいつが俺をこういう人間にしたと。

人を怨み、世の中を怨んで恨みの鬼と化して凶行に及ぶ。


他者のせいで自分はこうなったということは、置かれた環境や人に抗えない自分の根本的弱さに気付いていないのではないかと厳しい見方をしてしまう私などは思ってしまう。


人は壁にぶち当たったとき、
自分の力の無さ己の弱さに憤り、エネルギーを自分の内面に向かわせる人がいる反面。
自分は頑張った自分は強かったのに他人や社会が自分を陥れのだ、自分を認めない社会が悪いあいつが悪いと外に向かって憤る人がいる。


そして絶望した時、
内面に向かっていく人は自己否定ののち自らに絶望して命をも絶つ人もいる。
外に向かって絶望する人は自己の尊厳を信じて他者への攻撃を行なうようになる。


だからといって外に向かって攻撃する型の人が全て悪い人間だとは限らない。
その気性がうまく作用すれば社会の閉塞の突破口となる力を秘めている可能性が無いとは言えない。

だが往々にして社会との摩擦や波長の合わなさに悩まされることになりやすい。


子育てするうえで子の性格というのはつかみにくい。
親といえどもわが子が気弱な内向的性格なのか、気性の強い内向型なのか、気弱なのに攻撃的なのか、気性が強くしかも攻撃的なのかを見極めるのにはいろいろな経験の中で見ていくしかない。しかも親がその気で見ていなければ見えてこない。

そして、もし気性が強く外に向かって攻撃的な子ならば、どう育てていけばいいのかどう接していけばいいのかということを考えながら育てなければならないだろうと私は思う。


攻撃的な性格の人間(子)に対して上から押さえつければ強く反発することは目に見えている。
気性の弱い子に対して強く接すれば増々気性を弱めてしまうことはおおいにありうる。

もし自分の子が攻撃的で気性が荒い子だったとしたらどうしただろう。

私はたぶん育つ段階に応じて苦難を与えて苦しませ、自分の力を過信しないように自分自身に立ち向かう強さを持ってもらいたい、持たせてやりたいと思っただろうと思う。


なぜなら、挫折した時に頼れるのは自分自身なのだから。
挫折し自分を見失しなえば、救われるべき魂はどこかに流れ去ってしまう。
挫折しても自分をしっかり掴んでいられれば、ここが底だぞ、ここから浮かび上がるぞと自分を励ますことができる。


その本当の強さを持つまでに育て上げたいと私なら考える。
気性の強い子というのはとても育てにくい。子のエネルギーはすさまじくお前は親の生命力を奪いながら育つのかと思えるほどだ。そのエネルギーの塊のような子を制御する力がいるのだ。

また気性の弱い子は親にとって歯がゆくもあるだろう。
しかし、気性の弱い子はやさしい。気の優しい子の特性を生かした育て方をしてほしい。
弱い子に強くなってくれと願うのは親の欲というものだ。優しい子に救われること癒されることに感謝したいじゃないか。気の優しい子に恵まれた幸せというのは得難いものだと思う。


今回の練馬の子殺し、川崎の大量殺傷の事件に冒頭でも書いたがなぜそんな地獄に落ちてしまったのだろうと思った。


近年増々子育ては難しくなっている。
価値観が多様化し、生活・教育環境も多様化している。
ネット社会は親の計り知れない広がりと深さがあり理解しがたい部分も多い。
部屋にこもってPCに向かって動かない子供。
親は何をしているのかも分からず不安ばかりがつのる。

挙句の果てに親子の仲が険悪になる。


だが、ネットから何かを得ている子供にすれば親の理解など求めてはいない。
自分には必要だと信じて疑わず、これをクリアできれば更なる能力が得られる、そうして自分は高みに上れるかもしれないじゃないかと嬉々としてPCに向かって日々精を出す。


この溝は、埋めようがない。
親の想像を超えた世界に入り込んでしまった子をハラハラして見ている親。

思い通りにクリアできず苛立つ子。

ネットの世界は入りやすい世界だ。
が、
奥が深い。東大や京大の理系のトップクラスの知的レベルの人が理系脳を駆使して作り上げ牽引している世界なのだ。

そのネット社会を作っている側の人になるのか、遊ばせてもらうだけの人になるのか。

この画面はどういう風に作られているのだろうと興味を持つのか、
ゲームの進展に興奮しているだけなのか。
親はそんな視点を持って、PCに興味を示している子供の様子をみてみるのも一考ではないかと私は思う。



私は多少だが、C言語でプログラミング操作したりする。複雑なことは到底できないがネットの画面に映し出される画像や文字や構成が設計通りに決められた言語や数字で作り出されていることは知っている。



もし自分の子がネットに囚われたら、どの高みに昇ろうとしているのか聞くだろうと思う。
そして誰かが作ったゲームやアプリに嵌っているのなら、興味の方向をちょっと変える方向に引っ張ってみる。
例えば、このゲームの背景を変えるならどんな画像がイイと思う?とか 音楽を変えるならだれの楽曲がいい?とか。
お前なら作れるようになるんじゃないか?とか。


ゲームやアプリに嵌る心理というのは一種のギャンブル性が高い。

子がそこに嵌ってしまったら救出しなきゃならない。

ギャンブル依存はやっかいだ。




子供とのかかわり方は基本的にはあまり変わっていないのではないだろうかと思う。

まだ幼児の頃、おもちゃを与えて興味を引出し、ドンドン成長する姿をみて喜んでいたのにいつの間にか訳分からん方向に行きやがったと思ったのなら、それはおもちゃの内容に親が着いて行っていないのであって、親の勉強不足は否めない。


ネットゲームのせいで子が変な方向に進んだのだと思ったらそれは間違いで、子の成長を把握できなくなっている自分(親)の力不足を棚に上げて子を叱ったりしたら、子に馬鹿にされても仕方ない。

だが、親を馬鹿にするその優しさの無さは捨て置けない。

そこは正すべきだし、いずれ子は親を超えていく、それは当然の成り行きなのだ。
親は年老いて能力も知力も衰える。新しいものを吸収できなくなるのだから。

馬鹿にしている間はまだまだ甘えているということだ。
親を馬鹿にするというのは、子が幼いからだ。
成長を促すうえで、そこを教えてやるのも親の役目かもしれない。
賢い子は親に教えられなくても気づくものだ。


親が偉くはなく自分は親を超えてしまった、労わる側になってしまったと気付いた時、
子は切ない寂しさを覚える。
それは誰もが経験したことだと思う。
だが、人間的にはまだまだ越えられない厚みがあるなぁと私などは思った。


そこまで来たらもう親の出番は終わりということなのだなと私は思う。

しかし、子がまだ経済的にも精神的に幼くて自立できず、そのくせ偉そうに振る舞うのなら千尋の谷に落としてやる勇気も必要なのかもしれないと今回の事件を見ていて思った。

千尋の谷に落とすとは、決して己の手で殺してしまうことではない。
這い上がれ、見守っていやる。骨は拾ってやるということだ。




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posted by win-manma at 21:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 暮らし
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