話題は深刻

介護のこと。
一人の友は10年の介護で父親を看取ったばかり。
彼女は介護の仕事に携わっています。
多くのお年寄りの家に入っています。
そこで見るのは子供に見捨てられたような親の姿です。
娘が3人居ても誰も手を貸そうとはしない可哀相なおばあさんの話とか聞きました。
『何処にでも転がっている話よ』と彼女は悲しげに笑っていました。
そして、
「でもね、親を介護して看取る人のタイプってあるね」
といいます。
manmaもそう思います。芯に人の良さがある。
損な性格なのかもしれない、芯に優しさがあるのかもしれない。
それでもmanmaは自分に恥じない生き方がしたくて介護をしました。
だから悪性癌で介護の期間は短かったけれど悔いは残っていない。
その友人に聞いてみました。
「介護から逃げて後悔しないのかしらね」

「後味の悪い後ろめたさを感じないのかね」
友人ははっきり言いました。
「そんなこと感じない人多いよ」
「忙しくて出来ないなんていうのは単なる言い訳よ、したくない気持ちのほうが大きいのよ。そんな人は後悔もしない。」
manmaは弟達に
「変わってるね


と逆切れされて
「それは違うんじゃないの」

「親の死を受け入れる覚悟して、親の人生の最後の下り坂を手を取って全うさせるのは子の務めでしょう」

人間は一人では死に切れない。厄介な生き物なんですね。
その死を見守ってくれる何かを求める弱い生き物。
動物は一人で隠れるようにして死を迎えたがります。
ある意味強いなと思います。
象は死を悟り、ひとり象の墓場に向かうそうです。
人は自分の死を悟るなど至難の業です。
悲嘆し、周りを巻き込み大騒ぎをして死んでゆきます。
それが人間というものならば、死に水とってやる覚悟は常に自分の中に持っていたいとmanmaは思っています。
その覚悟がなくて何の介護だと思うのです。
しかし、
改めて考えてみたら、そんな覚悟容易(たやす)くできるものではありませんよね。
弟が言ったように「誰も逃げたいのが本心だろう」
そうかもしれません。
去年、上の弟が亡くなったとき
介護から逃げたがったこの弟と、棺の前で通夜の一晩を二人で過ごしました。
その時、この弟が言いました。
「俺はあの時恐かった

「お母さんが衰え死んでゆく姿を見るのが恐かったんだよ」
あの頃
manmaにはその『恐い』という感覚が無かった。分からなかった。
60歳の若さで母はその人生の終わりの時を迎えようとしている。
医者は必死で生きてもあと半年、
ならば
母自信が死を受け入れ、心安らかに息をひきとるまでそばに付いていてやろう一緒に死の淵まで歩いてやろう。それがmanmaの努めだと思った。
ひとりで彷徨いながら死を覚悟するのは辛かろう悲しかろうと思ったのです。
母はどんなに我儘を言っても、悲しんでも、怒っても動じないmanmaの姿をみて自分の死を悟りました。それから程なくmanmaの手を取って「manmaありがとう」と言い。二日後に亡くなりました。
人はいつか死ぬのです。
それなのに人は死を恐れ、なかなか受け入れられない厄介な生き物なのです。
でも、死というものを受け入れた時、人は不思議とホッとした顔をするんですよ。
若い人は『死』というものを受け入れてこそ『生』が確かなものになることを見逃している。
それはすごく勿体無いことですよ。
自分の人生を考えるヒントがいっぱい詰まった玉手箱みたいなもんです。

manmaの父(戦場で死を見てきた)は、
まだ子供のmanmaに「死ぬ覚悟はいつでも持っておけ」と厳しいことを言いました。
父曰く、
『その覚悟があれば、無様(ぶざま)な死に方はしない。』
これは、裏返せば無様な生き方はしないということなのかもしれません。
父は子供にその覚悟を教えたかったのだと思います。
その父の教えが母の死を安らかなものに導いたようにも思います。
人の手を借りなくては生活できない要介護の親、
その親の人生があと10年あったとして、その終わりに安らかに死を迎える手伝いをすることが本物の愛情ではないだろうか。
親子の情愛ではないだろうかと思うのです。
死は避けても遠ざけても確実にやってきます。
その死を哲学的に突き詰めると「生の輝きと生の悲しさ」が見えてくるものなんですよね。人間って不思議な生き物です。
親の介護をするのは、死を受け入れる覚悟が出来ている人のところに来てしまうんでしょうね。
今日ランチしたその友人が言ってました。
みんな介護して死を見守ってやれてよかったと言うんだそうです。

お父様の仰った内容がとても好きです。
私は、人は「どう死ぬかでなくどう生きたか」が重要だと思っています。
高齢化社会に入り、様々な場面があると思いますが、死を取り巻く環境はご本人よりも周りの人間の問題である事も多いように思います。
しかし、お世話になったご家族に対して、少しでも安らかにその時を迎えて欲しいと言う気持ちは、あって当然な物だと思います。
むしろ無い方が怖いきもします。
あと、タイトルの疑問ってありますよね。
私は、出来る人がすすんでやれば良いし、その上で介護保険サービスを利用すれば、お互いの負担は少しは減らせると思っています。
>「しかし、お世話になったご家族に対して、少しでも安らかにその時を迎えて欲しいと言う気持ちは、あって当然な物だと思います。
むしろ無い方が怖いきもします。」
その当時、私もあって当然だと思っていました。
しかし、死を恐れるあまり直視できず逃げ出す人もいるんですよね。
又、損得勘定で労力の対価を計算して自分ばかりがなぜ損な役回りを・・・そんなのご免だと思う人もいる。
介護を受ける人の中にはそれを承知で、財産を餌に若い人を釣る人もいる。
介護の醜さ大変さは、そんな“人のこころ”の深い部分が否応なく晒しだされるところだと思うんです。
両親を看取った20数年前は私も若かったので真っ直ぐな気持ちで突き進みましたが、
お金目当てでしょなんて言われ、いたく傷つきました。
今なら、この人そんな風に考えるんだイヤらしいなと淡白に思えますが、
当時はとても腹が立ちました。
親はやはり元気に長生きをして、子供がしっかり大人になってからスッと死ぬのが子供への恩返しなんじゃなか?と思うようになりました。
スッと死ぬのは運命ですから多少の誤差は許してもらうしかないですけどね。(笑)
そうそう、「死に行くものの愛想尽かし」ってご存知ですか?
「もういい加減にしてよ!早く死んでほしいわ」と思わせるまで追い詰める行為で、残された者が悲しみに打ちのめされない為の本能的な親心だという人もいます。