2012年10月07日

BS歴史観「伊能忠敬」を見て

先週放送された「BS歴史観(NHK) 伊能忠敬」を見てちょっと興奮した。(笑)


伊能忠敬の偉業は精密な日本地図を作った人として知っていたが、忠敬が所属していた幕府天文方というのがあったことを始めて知った。

暦の専門機関で常に天文台で天体観測をしていたということに驚いた。
(1685年)に牛込藁町の地に司天台を設置した。元禄2年(1689年)に本所、同14年(1701年)に神田駿河台に移転する。春海の没後、延享3年(1746年)に神田佐久間町、明和2年(1765年)に牛込袋町に移り、天明2年(1782年)に浅草の浅草天文台(頒暦所とも)に移った。この時に「天文台」という呼称が初めて採用された。高橋至時や間重富が寛政の改暦に従事したのは牛込袋町・浅草時代であり、伊能忠敬が高橋至時の元で天文学・測量学を学んだのも浅草天文台であった。その後、天保13年(1842年)に渋川景佑らの尽力で九段坂上にもう1つの天文台が設置されて天体観測に従事した。wikipedia


伊能忠敬は幕府から全国の海岸線を測量するように言われ各地を回った。

西日本を回る頃には大変な評判となり、各藩は全面協力を惜しまなかったという。


彼らの中には伊能忠敬に三角関数を習いたがる人もいたと聞いて驚いた。

当時の数学のレベルの高さを知る思いだ。



そもそも伊能忠敬は天文学がしたかったらしい。地球の大きさが知りたいと思った。
天体を見つめて江戸と蝦夷の距離を測り、地球の円周は4万キロというほぼ正確な数値を叩き出していたという。




数年前、市の市民特派員というのを少しした際、長崎街道木屋瀬宿の「みちの郷土史料館」で見学させていただき解説をして頂いた。

その時も江戸時代の文化レベルの高さに驚いた。

当時既に旅行ガイドブックがあり、宿泊施設の情報や評価なども全国レベルであったことを知り、自分の無知に恥じ入った。

旅行グッツも充実しており、コンパクトを旨とした生活雑貨が精巧に作られていた。

現代の生活がさも進んでいるように思っていたが、江戸時代のほうがよほど進んでいて、エコの精神からすればそこに立ち戻ろうとしているのではないかとさえ思えた。




BS歴史観「伊能忠敬」を見て、技術立国日本は近代に始まったことではなかったのだ。
日本は、理系に強いという歴史が脈々とあったのだと思った。





着物に丁髷(ちょんまげ)、毛筆に算盤、縦書きのイメージからは想像しにくいが、当時の人々は確かに数字や数学を使いこなしていた。きっとそうだに違いないと思った。



秀吉が土木技術に精通していたことは有名だ。

中国攻めは水攻めだった。


謙信が敵の井戸を枯らして飲み水を奪い、攻め立てたことも知られている。


これらは土木技術者がいなければ成しえない。

命令が下れば技術者達が現地調査をして測量をして水を自在に止めたり流したりしていたのだろう。



西洋の学問が入ってきてから日本は開花したのだと教えられたように思っていたが、そうではなかったようだ。


なぜそのような誤った歴史認識が植えつけられたのだろう?


只単に知らされなかっただけかもしれない。
理系の人は一般の人達に分かりやすく上手く言い表すことが概ね苦手だ。(笑)


それにしても、日本の数百年前の理系が本当は凄かったんだという話が伝わってこないのはもったいない。



伊能忠敬の日本地図はスゴイぞ!

花岡青洲の麻酔術は西洋に先駆けていたんだぞ!
乳癌の権威だったんだぞ!

というだけでは説得力が無い。

具体的にこの道具がスゴイ、この計算方法がスゴイ、このデータがスゴイという

「大昔のこの人がスゴイのは・・・」そんなテレビ番組があったらおもしろいだろうな。(o^∇^o)ノ と思った。








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posted by win-manma at 22:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 暮らし
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