2021年10月03日

備忘録 司馬遼太郎著「最後の将軍」

司馬遼太郎著「最後の将軍」

NHK大河を見ていて慶喜公のことが知りたくなり読んでみた。

大河の草g 剛さんを見てて役者としてイイよ!この人と思った。

SMAPの頃から知ってはいたが、あまり目立とうとしない人だなといった印象しかなかった。
大河を見ていて、この人、年を経た大人の味わいが出させる俳優さんなんだ、キムタクとは真逆だね。
へー(・。・;。と思った。


司馬さんの最後の将軍は正直に言って、面白くなかった。
資料を十分に集めて吟味して史実に沿って書かれた小説という印象。

慶喜さんが魅力的じゃないから面白くならないのは仕方ないといった印象。


そう! 慶喜さん官僚的で面白みがないうえに愛嬌もない。
誠実な人間味もない。国を再構築する夢もビジョンもない。

頭脳明晰で、事の成り行きを見通す鋭い見識と情勢を見極める目を持っている。

だから、皮肉にもここぞという時に一人で逃げるという恥知らずな判断をする。



こんな人をなんで幕府は最後の着地点を決める時の頂点に据えるかなぁと思う。

沈んでいく徳川の尻拭いを誰もが嫌がって押し付けたにしても・・・。



人間が小さすぎるわ。



頭がよくて口が達者で、口で言い負かすことにかけてはズバ抜けていたらしい。
それって、野党の枝〇さんみたいじゃないと直ぐに浮かんできた。

口先で人を攻撃するのは得意だけど、国の将来像や舵取りの具体的なビジョンはちっとも伝わってこない。
私達が聞きたいのは大臣たちの失態攻撃ではなく、具体的な政策論争なのに。
自分の弁舌に酔い満足するタイプって、、、。
底が浅いと感じるのは私の悪い癖かしら(-_-;)



司馬さんも書いておられるが、将軍の器じゃなかったのよね。
本人もそれは分かっていた。
だから直ぐに逃げる。
本当は薩摩や長州と一緒に新体制の一員として徳川もやっていくつもりだったのに薩摩に除け者にされ煮え湯を飲まされた。


この本を読んで、
頭が良くて、切れ者で、先が見通せる。これでは冷たい印象しかない。
それを人としての温かみでもって包み込まないとね、人間社会では浮き上がり溶け込めない。



私に欠けているのはこの温かみだな。(´-ω-`) あせあせ(飛び散る汗)







posted by win-manma at 11:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 備忘録

2021年07月27日

備忘録「天切り松 闇がたり1〜5」 浅田次郎著

江戸弁の心地良い啖呵と、筋の通った心意気男意気と格好良さ、溜飲が下がる物語だった。

ちょっとそれは無理でしょうと思う部分も多々あるが、まっいいか"これはファンタジーなんだよと許してしまえる愛嬌がある。

大正ロマンというのは聞いたことはあるが、西洋の風が吹き込んだロマンチックな文化がこんなに花開いた時代だったとは知らなかった。


舞台は東京、今も残る地名が随所に出てくる、三越も松屋も当時の賑わいが目に見えるようだ。


そして、全巻を通して語られるのは銭勘定・星勘定などはなから論外の心意気・男意気・任侠の神髄。


-----------**



先日の書道教室でのこと。

コロナワクチン接種で生涯学習センターの部屋が教室として使えなくなり、この日は急遽大きなイベントホールの会議室を予約して教室を開くことができた。


こんな部屋が取れたのかい、ホーとばかりにこの日は参加者が多かった。

慣れない施設利用でこちらも多少アタフタしたが無事に終わろうとしていた時、
遅れてきた人が月例の提出物の仕上げをしていた。
見れば、気の利いた人達が片付けなきゃねと早々に机や椅子を片付けて部屋の隅に寄せてしまっている。

彼女は折りたたみ椅子で印を押したり、提出票を貼ったりしている。
それを遠巻きにして二三人で笑いながら「あら、ご免ね〜。片付けちゃった」とからかっている。

あらま!机を出せばいいじゃないと思い。畳まれた机を出して印を押す手伝いをした。


今頃の会議室の机はワンタッチで開いたり閉じたりできるのだ。数秒の手間。便利なもんだと感心した。



翌日、役員のひとりから「私、役に立ててないね。ほんと情けないわ」と電話があった。

その時は何を言っているのかよく分からなった。



昔、OLだったころ。
お顔だけは知っていた他所の課の課長さんからうちの息子は地元の信用金庫に務めているんですが、息子とお付き合いをして頂けませんか。と言われたことがある。

突然のことに驚いていると、姓名判断で「あなたは善悪の判断ができる人だと分かりました」と言われた。一度お会いしたような気もするが、お断りしたのだろう。交際した覚えはない。

しかし、善悪の判断云々と言われたことだけは心に引っ掛かった。



善悪の判断など誰にでもあるものだと思ってきたがそうではないのだと、この年になると分かってくる。

ちょっとつまずいてかがみこんだ人を助け起こす人もいれば、後ろから突き倒す人もいるのだ。
突き倒して笑って楽しむ人を私は最近睨みつけなくなった、きっと大人になったんだろう。
その代わり蔑み哀れだねと思うようになった。



教室の机の件にしても、その場で善処すればいいだけのこと。体が先に動いている。
役員の友人はそれができなかったと悔いているんだなとその翌日になって気付いた。



たぶん、人を突き倒したり、困った人をからかって喜ぶ奴にゃ
天切り松の心意気男意気の筋の通す意味は分かるめえ。(天切り松風)


ざまぁみやがれ (*'▽')




.
posted by win-manma at 13:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 備忘録

2021年05月29日

備忘録 五郎治殿御始末 浅田次郎著

DSC_0098[2302].JPG


幕末、江戸が滅び明治になる当時の武士それぞれの悲哀が描かれた物語。


大正生まれの父に武家の矜持を持てと自害の仕方まで躾けられて育った身には納得のいく内容の小説だった。
矜持とは 自信、自負、自尊といった「誇り」あるいは「プライド(pride)」の感情を意味する語。


今となっては滑稽ですらある武士の価値観に共感し涙ぐむ自分であることに嬉しささえ覚えた。

背筋を伸ばし、堅苦しい考え方をしてしまう自分に、ダメよダメダメもっと柔らかく優しくなれと反省する事ばかりの日々に、武家の精神性の美しいまでの潔さ切なさを呼び覚まされて、浅田次郎さん凄いわ!!と思う。

浅田次郎氏の本はこれが初めてだった。


「蒼穹の昴」をほんの少し覗いて捨て置いたことがあって、この人の本は苦手だと思っていた。

いやいや、上っ面だけの人気の物書きさんじゃなかったのだと思い知った。


改めて浅田次郎を堪能してみたいと思っている。




.
posted by win-manma at 17:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 備忘録

2021年04月25日

備忘録 [銀の猫]朝井まかて著 

DSC_0084[2214].JPG


江戸時代の介抱人(現代の介護ヘルパーさん)の物語


裕福なご隠居さんの老後に寄り添う主人公が、依頼されるそれぞれの家庭とそこに関わる人達の思いや苦労を根っこから汲み取り安寧に暮らすすべをそれとなく引き出していく物語。

そして、老衰して死んでいくさまを優しく描いている。


主人公の長屋の隣人で無論決して裕福ではない貧乏長屋の老婆が息子やお節介で元気な老女に看取られるシーンはジンとくるものがある。

ひとりが「逝きなすったね」と言う。静かにあの世に旅立った様子がすんなり腑に落ちる説得力を持った文章だった。


あーこんな風に静かに旅立ちたいものだと思った。




.

posted by win-manma at 10:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 備忘録

2020年12月17日

備忘録 AI.vs 教科書が読めない子供たち

「AIvs 教科書が読めない子供たち」 新井 紀子 著

AIが世の中を変えると言われるようになって久しい。

問題は今後AIが、多くの人の仕事を簡単に短時間でこなしてしまうようになるということだ。
そうなると、社会においての人の仕事が減り、収入を得る方法を失う人が相当数に上るようになるだろうと予測されている。

大昔から人間社会は進歩を続けてきた。

物々交換の次にお金が生まれ、農業が根幹だった社会から機械産業へとシフトし、車社会の次にコンピューターが出現した。
その度に人々は戸惑い流れに乗り遅れる人々が困窮し翻弄されて辛酸をなめることを繰り返してきた。



私の世代(1953年生まれ)は経済成長に必要な人材育成が急務となり、詰め込み教育が本格的になった時代だった。
概説
詰め込み教育は試験の点数は上がる反面、児童・生徒の学習の動機付け・持続に欠けるという短所があると言われる。

普通教育の最終目標が大学入学試験突破にあり、また当時の高度経済成長下において均質かつ従順で質の高い勤労者を育成する必要があった日本においては、少なくとも1970年代まではこの教育方法が一般的であった。だが、詰め込み教育の一番の問題として、「テスト過ぎたらすべて忘れる」(『剥落学力』と呼ばれる)といった成績のための暗記が一般的になったことがある。また、膨大な量の知識だけをひたすらに暗記させた結果、「なぜ、そうなるのか」といった単純な疑問や創造力が欠如してしまう点も問題である。授業速度の上昇や、現場の準備不足、教師の力不足もともない、落ちこぼれと呼ばれる、授業についていけない子どもが増加した。
Wikipediaより



中学生の時、機械的に丸暗記させられることに嫌気がさした。

私は中学での学習を放棄した。
当然成績は無残なものになった。
要するに頭が(特に記憶系が)弱かったということだ。
それでもなんとか普通に生きてこられた。
高度経済成長、昭和元禄のおかげなんだろうなと思う。


30年前パソコンと出会ったとき、今からはこれが主体の社会になるなと直感した。PCは記憶力を補ってくれる、計算ミスをしない。思考力や直感力が発揮できる世の中にやっとなるなと思った。
しかし、PCが社会に浸透しAIが世に知られるようになるまでに30年も掛かった。

長い間PCは計算機だった。



人間の思考には複雑な回路がある。
記憶と創造力とが合わさり織りなして、イメージが出来上がる。


AIにはましてやPCには思考力は無い。発想力が無い。閃きなんて起きようがない。


計算力や膨大な知識量を活かせる能力は、AIの方が人間より勝っている。


これからは思考力や発想力、閃きを持つ人間が、膨大な量の計算や途轍もない量のデータを持つAIを駆使して時代を進ませることになる。



記憶力が苦手な私は子供を育てるとき、思考力に力を入れた。

2歳の子に疑問を投げてやると、幼児のくせに小さい頭で一生懸命に考えている。それが手に取るように分かる。少ない知識を駆使して突拍子もなく面白い答えを引っ張りだす。
人間は考える生き物なのだ。

ドンドン伸ばしてやりたいと思った。
10代のころに読んでいた発達心理学の知識が少し役に立った。



娘は文系頭だと直ぐに分かった。

字を読む能力が卓越していた。幼い頃、視覚に文字が飛び込んでくると言っていた。


ちなみに孫は理系頭だ、数字やパズルが目に飛び込んでくるらしい。

先日上京した際に孫と、毎月送られてくるドリルで遊んだ。
迷路やパズルや数字が載っていると嬉々として取り組もうとする。あっという間に解いてしまう。

しかし、問題文をちゃんと読もうとしない。

字は読めるが、意味を持った言葉として吸収されるまでにタイムラグが生じる。
娘の幼少時はこの時期が全くと言っていいほど無かった。センテンスとして文字を捉えていた。

これからの時代、教科書がちゃんと読めない子供たちの将来はAIに取って代わられちゃうよとこの本は訴えている。

裏返せば教科書くらいは一字一句違えずに読めるならば、なんとかなるということだろうか?


私も教科書が読めない部類に入る。
一字一句見逃さないで読もうとする意識が欠落している。

頭の悪さは治しようのない持病だと諦めている。その頭で読むものだから飛ばし読みになってしまう。

それではダメらしいので、「AI.vs 教科書が読めない 」を読んで、ゆっくり読む練習をしてみた。
なかなかできない。早く問題を解くことを強いられる環境で育ったせいだと思うが、単に注意力散漫なだけだなと観念する。

それならばと、飛ばし読みの癖は直らないが漢字に注意を払いながら読んでみた。

成る程、文章の内容が今までよりちゃんと入ってきた。

意識の集中の仕方が少し変わった。




PCの総力を上げて進化した末にAIが生まれた。

AIはかなり複雑な問題もハイスピードで答えを出してくれる優れものだ。

AIは文句も言わずご飯も食べずに24時間動き続ける。

事務処理も銀行の窓口業務もスーパーのレジも病理の検査もなんでもやってのける。


これからは記憶や計算力やデータ処理に下支えされた職業はAIに取って代わられるようになるらしい。


AIは国語が苦手なんだそうだ。

特に日本語は分解処理しても入力の種が一定せずパターン化が難しいらしい。

日本語は音読みと訓読みあり、音で分類しても同一音で意味が違う場合が多い。

ニュアンスを重視する日本語は数学的に分解するのが困難だという。




これからの教育は、大きく変わらざるを得ない。


思考力の無いAIと思考力の無い頭脳なら、AIのほうが便利に使えるのは言うまでもない。


AIに取って代わられない社会人に育てなければならない。



今、先が見えにくい時点に来ている。


社会が大きく変わろうとしている。




.
posted by win-manma at 11:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 備忘録

2019年04月06日

備忘録 養老孟子著「養老訓」

老後の生き方の指南書を2冊読んだ。

外山 滋比古 (著)「知的な老い方」を読んだが私の老後とはどうも違うなと感じた。
財テク上手で都会暮らしの教養人の知的老後の暮らしには要するにお金がなくちゃ楽しくないよ。と書いてあるのだなと私には思えた。
どうも私はお金に執着する人の話が好きではない。お金で買える幸せや楽しみなんて大したことないでしょうと思ってしまう。
お金では得られない感性や優しい心根に重きを置いてしまう。
たぶん無い者の妬みも含まれてるんだわね。(笑)


次に養老孟子著「養老訓」を読んだ。

以下は目次。

訓の壱 不機嫌なじいさんにならない
訓の弐 感覚的に生きる
訓の参 夫婦は向かい合わないほうがいい
訓の四 面白がって生きる
訓の五 一本足で立たない
訓の六 こんな年寄りにはならないように
訓の七 年金を考えない
訓の八 決まりごとに束縛されない
訓の九 人生は点線である

前回の「知的な老後〜」はとっても安易で読みやすく私の頭でも言っておられることは理解できた。


ところが

「養老訓」は全く私の頭に入ってこない。

養老さんの言っておられることが伝わってこない。
目次は平易な言葉で書かれているのに何を教えて下さろうとしているのか全くチンプンカンプンなのだ。
知的レベルが全く違うのだと気付いた。


あっ、これが「バカの壁」だ。

あー私は養老先生のおっしゃる概念的思考に毒されているのだな。だから自分を肯定しよう否定されまいとする意識が働いて理解不能状態になったのだ。
そう気づいたのは本の終わりにさしかかったころだった。

そこでもう一度最初から読み返してみた。
二度目は多少なりとも理解できるようになってきた。

そうそう先生が仰るように、「あーすればこうなる。こうすればあーなる」と頭で考えながら生きてきた。
詰め込み教育の全盛時代に育った。頭のいい人が優れていると刷り込まれて育った。

それは都市生活の上でしか成り立たないのだよ。
自然界に入ると予測不可能なことばかり、感覚が生きる上でとっても大切になる。
都市型社会に暮らすとその感覚的思考が弱くなり概念で生きるようになる。
と書かれている。


脳内のバランスが悪いとも書かれていた。
入力ばかりで出力していないと。

確かに入力方法は学校で習ったけれど、我々は出力方法は学習していない。

子育ての頃「ゆとり教育」が盛んに提唱されて授業時間を減らし、体験学習をさせなきゃダメだとなりゆとり世代なるものを生み出したが、競争を排除し個性豊かに育てようというのはスローガン的提唱に終始して真の人間形成には及ばないままに終わった印象がある。


頭で考える。人として生きていくにはそれがすべてだとつい思ってしまう。
違う違う、頭の力を抜かなきゃ鬱血してしまう。


そのためには五感を開いて感受しようと先生はおっしゃる。


人は脳内バランスを整えて心身ともに健やかに老いればこれほど幸せなことはないと。


まったくだ! この年になっても教えられることがいっぱいある。
気付かされることもいっぱいある。

人生は楽しいものだなと年金がもらえて飢えることなく自由に時間が使えるようになってつくづく思う。


もし年金収入がなくなって飢えるようになったらさっさと死ねばいいんだもの。
なんとなくそんな風に読み取れる部分もあって、そう!わたしはやはりこんな気概のある老人が好きだし自分もそうありたいと思っている。


いい本だった。




.

posted by win-manma at 15:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 備忘録

2017年09月14日

本 孤宿の人〈上・下〉

昨日読み終えた
宮部みゆき著「孤宿の人〈上・下〉」

久しぶりに最後は泣けました。
やはり人の心の優しさに弱いです。

“ほう”はちょっととろい女の子。
母親は奉公先の若旦那の手が付き身ごもり出産後直ぐに亡くなる。
不幸な生まれのほうは物覚えが悪く邪魔者扱いされ、いい様にコキ使われる。
誰にも愛されずいじめにも遭うがトロイ頭が幸いするのか、心が捻じ曲がっていない。
人が私に冷たく当たるのは阿呆の呆(ほう)だからだと思っている。
周りの人に教えられた阿呆のほう(呆)を素直に受け入れている。

そのほうの素直な優しい心根がじんわり伝わる宮部さんの筆致に読み手は癒される。
そんな阿呆のほう(呆)に加賀殿が名前をくださる。
最初に方角のほう(方)そして最後は宝のほう(宝)

見目麗しく才たけてもいいが、
人の深い悲しみや優しさを汲み取れる確かな心の目を持ち、素直に相手を見つめる目を持つことの素晴らしさを感じ涙が流れた。



8月の読書でこころに残ったもの

孫子(上・下) 海音寺潮五郎著
人情武士道  山本周五郎著
ちょっと今から仕事やめてくる 北川恵海著
果つる底なき 池井戸潤著





.
posted by win-manma at 15:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 備忘録

2017年05月29日

備忘録 2 「菅仲」

声に暗さがない。
素直で明るいということは、思考と生活に屈折がないということで、
実は人としての器としては大成しない。

宮城谷 昌光 著 「菅仲」より



先月読んだ宮城谷氏の本
内容(「BOOK」データベースより)
「管鮑の交わり」で知られる春秋時代の宰相・管仲と鮑叔。二人は若き日に周の都で出会い、互いの異なる性格を認め、共に商いや各国遊学の旅をしつつ絆を深めていく。やがて鮑叔は生国の斉に戻り、不運が続き恋人とも裂かれた管仲を斉に招く―。理想の宰相として名高い管仲の無名時代と周囲の人々を生き生きと描く。


「素直で明るいということは、思考と生活に屈折がない」このような人物が理想的だと思ってきたが、否定されてしまった。

鮑叔は明るく素直で精神に屈託がなく爽やか。
苦難にあっても素直で真っ直ぐな精神性を貫き、己の信ずる道を進み己が信じた管仲を敬い管仲に道を譲った。
鮑叔こそ屈折のない生き様を示していると思うのだが、この捉え方では読めていないということなのだろうか。

私には大成し名声を得た管仲よりも鮑叔のほうが人としての器は大きいと思えるのだが・・・。
素直なお育ちだから宰相として大成しなかったといいたのだろうか。
管仲は苦労が多く挫折や困難が多かった。だから大成したのだと?

そんな単純なことは書かれないはずだ。
苦労が多く、困難や挫折や苦しみが人を大きくするというのは分かるような気がするが、はたして土台が素直でおおらかでない人が大成するだろうか。

この小説「菅仲」において主人公菅仲は鮑叔より見劣りがするなと私は思った。

これは好みの問題だけではいように思うのだが・・・。



.
posted by win-manma at 21:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 備忘録

2017年05月24日

備忘録 山本周五郎著 虚空遍歴より

死ぬことはこの世から消えてなくなることではなく、その人間が生きていた、という事実を証明するものだ。死は人間の一生にしめ括りをつけ、その生涯を完成させるものだ、消滅ではなく完成だ

虚空遍歴より


そうか!
消滅するだけだと思っていたが、そんな簡単で単純なものじゃないよな。

今は亡き我が両親や祖父母の存在の証は彼等を知る者の記憶の中にしかなく、いずれは忘れ去れるのが人間だと思ってきた。
が、
自分自身の死を見つめる時、私はこの世から居なくなるんだ。みんなバイバイねという心境では逝けない。
私の人生、これで御仕舞い。と納得しなきゃいけない。


この虚空遍歴を私はまだ読んでいない。
宮本輝氏の「命の器」の作中に出てきたので忘れずにいたいと思いここにメモした。

読もう。



.
posted by win-manma at 11:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 備忘録

2016年02月27日

司馬遼太郎著 世に棲む日々

葉室 燐 著「春風伝」を読んで何か違うと感じ、司馬遼太郎さんの「世に棲む日々」を読みたいと強く思った。

春風伝は高杉晋作の名を語ったストーリーつまり物語の筋書きだと思えたのだ。
時代や場所や登場人物は幕末の長州や京都や上海なのに高杉が魅力的じゃない。

司馬さんならもっと高杉晋作をしっかり掴んで迫っているはずだと思った。

世に棲む日々は前半は吉田松陰の話である。
司馬さんは著書の中で松陰を好まないことに触れていらっしゃる。
松陰を避けては晋作を語れないから書くしかなかった、らしい。

司馬さんの小説の魅力は、人物の明るさにあると私は思っている。
快活でエネルギッシュで底抜けに明るい。

確かに松陰は命を掛けて密航してまでも己の思いを遂げたいと欲する情熱の凄まじさはある。
エネルギッシュで前向きではある、が大らかさに欠ける印象を受ける。

それも個性であり、魅力といえば魅力なのだが、私はこのタイプが苦手だ。

山鹿流兵学師範の家として徹底した英才教育で育てられ、あらゆる思想や情報を収集し、それを煮詰めて我が物とし幕末の尊王の思想を作り上げた。
これを聞いた松下村塾の若者たちは目が覚める思いだったに違いないだろうと思う。

しかし

若者ではない私は、その人物を大ききく捉えた中に偏狭という部分がチラッとでも見えると、底が見えてしまったような気になる変な癖がある。前半の松陰の部分を読んでいてそう感じてしまった。


松下村塾に集まる若者達は決して松陰を偏狭などとは思っていないと思う。
とてつもなく大きな存在だと思ったとおもう。

司馬さんは戦前、軍が天皇を奉るやり方に松陰を利用したから好んで取上げようとしなかったと書いておられる。

が、

それよりも、私にはこの世に在るわが身の命の捉え方の違いを感じておられたのではないだろうかと思えた。

高杉や竜馬の自分の命に対するフットワークの軽さが松陰には感じられなかったのではないか。

武士には死に花さかせて命を輝かせる思想がある。
戦国ではなくあの時代の武士でも生への執着は薄い。
天命を、命の終わりをあっさり受け入れる明るさがある。肝っ玉の太さがある。
しかし、
松陰には己の死を計算してそこに賭ける小賢しさがあったのではないか。
命を思案で弄ぶ傲慢さがあったのではないか。


竜馬や高杉にはそれがない、戦いの日々の途中で命を落とすのである。
そして、本人達がそれを悔やんでいない。
この世でひと暴れしてあの世に去ってゆくだけのこと。
あー面白かった。(*゚▽゚)ノ 
「おもしろき事もなき世をおもしろく・・・」晋作辞世の詩





松陰は死ぬべき時を間違ったんじゃなか?
死に急いだんじゃないか?
命は天に委ねて、もっと大らかに生きてほしかったな。

命は思案の外に在るものじゃない?



読みながら天命を全うするということの意味や意義に思いを馳せた2週間だった。



posted by win-manma at 22:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 備忘録